ケアを訪ねて~日々の出会いを小説風に辿ります~
「バイバイ」
「ありがとう」
お互いに分かった。これが最後だって。
ケアマネジャーから連絡があったのは、二〇一九年の年末。
「明日退院する人がいて、がん末期なんだけど、ヘルパー入れない?」
急だ。家も近かったし、私が行くことにした。
部屋は古い長屋のようなところで、エアコンもベッドも洗濯機も無かった。あるのは冷蔵庫と寝袋。それは見るからに「寝に帰る」ためだけに使われてきた働く男の住処だった。家で食事を取ることは少なく、外へ出かけては他の客や店主がいる場所で食事するのを好んだ。だからそのぶん三鷹にあるお店には詳しかった。定食屋から酒場、蕎麦屋からイタリアンまで彼は知っていた。
最初の頃は元気で、会話もして、とにかく普通だった。物事にとかく細かくて、特に服の畳み方に強くこだわった。訪問医や訪看が来ると知ると、あそこを片づけて欲しいとか、あれも畳んでおいてくれよと言って、見てくれを気にした。強い口調で言うこともあった。べらんめぇで、当たりが強くて見栄っ張り。そんな人に見えた。
がんは皮膚に転移し、抗がん剤の影響も相まって皮膚が剥がれる。清拭も含めた身体介護が始まった。それでも私たちに弱いところを見せることは無かった。言動は若々しく、フランク・シナトラを好み、コサージュを挿した服が壁に掛けてあった。
二〇二一年三月、熱発した彼は入院することになった。ひと月して退院する機会ができたものの、ホスピスへ入るか、自宅に戻るかの選択をしなければならなかった。分かっていたのだろう、ホスピスに一度入ってしまえばもう自宅には戻れないということを。「家に帰りたい」と彼は言った。入院生活を通り抜けたあとは、以前のような生活を送ることができなくなっていた。だがヘルパーたちが再び生活援助を始めると、いきいきとして元気になった。そしてどんどんわがままになった。わがままが強すぎて叱ったくらいだ。
「そんなんじゃ誰もヘルパー来なくなりますよ!」
「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだけどよぉ」
彼はそう答えた。
退院してからも症状はひたすら悪化の方向へ進んだ。下半身に広がった皮膚がんは表面を膿ませ、浸出液があふれた。寝たきりの彼から毛布をはがすとむわっとするにおいがした。
「臭いだろ?窓全部開けてくれよ」
彼は私の顔を見ながらそう言った。
家族が部屋にやってくることになった。そもそも彼には妻と5人の子どもと5人の孫がいたのだ。彼はしきりに尋ねた。「孫にいくらやったらいいかな」。私は「1万でいいんじゃない」と返した。当日の朝になっても「いくらやったらいいかな」と聞いてきた。実際にやって来たのは孫と娘と妻だった。娘は父に向かって「なんか元気そうじゃん。骸骨みたいになってんのかと思ったよ」と言った。どこか父に似て歯に衣着せぬ物言いだった。帰った後、彼は私にこう話した。
「娘、きれいだったろ?」
「きれいだったね」
「四十には見えないね。二十年ぶりだからなぁ、最後に会ったのハタチだったんだよ。孫に会うのも初めてなんだ」
私はその事実を初めて知った。
身体はどんどん悪くなる。意識が朦朧としていることが多くなった。ベッドに上がろうとするたび、踏ん張ろうとするたび、痛みが走る。モルヒネなんか効かない。誰の目にもどうしようもないことが分かる。見ていられなかった。本人も相当痛いに違いなかった。普通あれくらいになったら、病院に入ってるはずだ。でも彼は家にいることを選んだ。
病は身体を完全に蝕んだ。救急車を呼んだのは私だ。サイレンが近づいて彼を部屋から降ろし、ストレッチャーに乗せる。ドアのそばで私は見守る。そして私は名前を呼んで軽く手を振り、こう告げる。
「バイバイ」
彼は口を動かして何かを言おうとしていた。私は近づいて耳をすませる。
「ありがとう」
そう言って斜め上を向き、瞳を濡らしていた。彼にも私にも分かった。これが人生最後だって。
彼はその一週間後に亡くなった。そばで看取ることはできなかった。聞いた話だと息を引き取るとき、部屋には家族みんなが集まったらしい。
(取材をもとに再構成)