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濡 れ た 千 羽 鶴 | ヒロシマの遺臭 | 朝日新聞記事 | |
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濡 れ た 千 羽 鶴
(ジョイセフJOICFP「世界と人口」1990年3月号) |
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数日前の雨に洗われたせいか、秋の広島の平和記念(原爆)公園は、始まりかけた紅葉に彩られて、文字通り平和で美しかった。西ドイツから訪れた旧友のG教授の懇望で、昨年私も旅行者として彼と共に、かつて行方不明の母を探し歩いたこの地を何年ぶりかで訪れたときのことである。
西ドイツで苛酷な戦禍を体験し、放射化学が専門の教授にとっては、原爆の地は人事(ひとごと)ではないのか、日本製のビデオカメラで、聖火や平和の鐘、納骨陵、公園内に散在する慰霊碑や記念碑などを熱心に撮りながら、私の英語の説明を聞いては、カメラのマイクにドイツ語で吹き込んでいく。 公園の川向こうに残る原爆ドームにも、そのカメラはじっと向けられていたが、鉄骨のドームは確かに姿をそこに留めてはいても、満潮を迎えたのであろう元安川の豊かな水面に映る秋空と、黄色く葉の色を変えつつある街路樹の景色には、四十数年前の潮の満ち干きに群れ漂い、橋桁にひしめき合っていた白い無数の水死体の情景は、私の脳裏には重ね合わせがたい。 そういえば、私はさっきから爆心地であるはずの公園を歩きながら、原爆の面影が見出せないのに違和感を覚えていたのかもしれなかった。 公園内の砂利にまで手入れは行き届いていて、当時動員された中学の幼い後輩達が倒れるままに焼死した跡とはとても思えない。慰霊碑などのブロンズや御影石の銘板の立派さも、あの悲惨な地獄をすでに歴史のなかに画然と押し込んで、大切に施錠してしまっているかのようである。 私は、撮影に余念のないG教授といつか離れて、この四十有余年の落差の前に呆然と立ち尽くしていた。 赤や黄、緑や青、紫の染料を失った白い紙の肌が濡れてゆがんだ羽を重ねている姿は、夏服はおろか皮膚をも一瞬の閃光に溶融されて、その熱い肌を、共々川の水に冷やしながら命を絶ったであろうあの無数の死体と余りにも似ていたのである。 再会を願いながら再会できずにいたかのような焦燥は消えた代わりに、いきなりの四十数年のタイムスリップに、ただただ佇んでいたのはどのくらいであったろうか。気がつくと、G教授が不思議そうに私の顔を覗きこんでいる。咄嗟に私は説明しなければならないと気づいた。 「日本では古来、紙を折って鶴を作る…」「この鶴に願いを込めて千羽の鶴の束を作り、供える慣わしがある…」「こちらの束は新しいが、この下の束の鶴は雨で色素が晒されて白くなっている…」「このような白い死体が川にたくさん浮かんでいたのを覚えている…」 私は、私自身混乱しているのに気がつき、説明をあきらめて口をつぐんだ。じっと聞いていた彼は、いま言ったことをもう一度このマイクに吹き込んでくれという。千羽鶴に向けてカメラはもう廻っている。私は不得要領な説明をまた喋り始めた。白くなった羽を互いに貼り付けるようにして眠っている千羽鶴への鎮魂の思いも込めて…。 G教授に、どれほど私の心象風景が理解されたか確かめなかったのは、私の気持がまだ鎮まっていなかったからかもしれない。しかし私は、いつもはとんぼ返りするこの地を、久しぶりにゆっくりと訪れた甲斐があったと、いまでも感謝している。 (後記)
千羽鶴一羽落ちたる原爆忌 形型子 のあることを先生の遺稿集の編集の際に知った。先生がどのような状況で作られたかは今は知るよしもない。 |
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