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【サヨナラのあとさき】生きているだけで讃えられるべき「自分らしさ」

はじめに

在宅ケアの現場に足を踏み入れるとき、私たちはいつも不思議な感覚に包まれます。
私たちは友人でもなく、家族でもありません。しかし、人生の最終コーナーを共に歩む中で、そこには名前のつけられない、けれど確かな「親密さ」が生まれます。
先日、ひとりの大切な利用者様、T様が旅立たれました。数年にわたるお付き合い、そして退院からわずか数日という最期の時間。彼女との日々を振り返りながら、私たちが大切にしている「在宅ケア」の姿を綴りたいと思います。

住み慣れたわが家で、自分らしく

T様とは、何年もの長いお付き合いでした。近年はパーキンソン病の進行もあり、日常生活のなかでご苦労される場面も増えていました。1月、微熱が続き尿路感染症の疑いもあり緊急入院。病院では敗血症や腎不全の治療継続のため治療を続け、退院まじかに経鼻管栄養の管を抜かないよう、両手にミトン(安全のために自由を制限する手袋) が装着されていました。 ご家族の「最後は住み慣れた家で」という強い願いにより、T様はご自宅に戻られることになりました。
退院後の訪問時、私たちはご家族の想いを受け、入院前に実施していた排泄介助や食事介助に加え、T様の手足をゆっくりと整えることから始めました。 ミトンを外し、お湯を運び、丁寧に手浴と清拭を行います。特にお母様の汚れを気にされていたご家族の気持ちに寄り添い、足の指の間も皮膚を傷めないようお湯でふやかしながら。これからの訪問を通じて、少しずつ、本来の清潔で心地よい状態に戻していこうと語り合いました。
自由になった手で、大好きな本を読み、おしゃべりを楽しめる日がまた来ることを信じて――。私たちはそんな希望を抱いていましたが、お別れは思いがけず早く訪れました。

ご家族の目を離れて、神田への「冒険」

T様との日々を思い出すとき、忘れられないエピソードがあります。「神田でビリヤニが食べたい」――そんな彼女の願いを叶えるべく、私たちは神田の街へと繰り出しました。
レストランの入り口には、車椅子では到底上がれないような階段が。しかし、ご本人は車いすを降りられ、一段一段一ヘルパーの助けを受けながら一生懸命登られました(ヘルパーはたっぷり汗をかきましたが(笑))
いざ運ばれてきたビリヤニは、驚くほどのボリューム。しかも、T様が想像していた味とは少し違ったようで、思いのほか食が進みません(笑)。この機を逃すまいとTさんはそのあとのカフェで甘いものを召し上がり、満面の笑顔。その姿に私たちも救われました。
自宅から外出することが難しかったT様にとって、自分のやりたいように振る舞える貴重な自由時間だったようです。娘さんには内緒の、ちょっとした我儘や冒険。私たちはその時間を共有する、いわば「楽しい共犯者」のような存在でした。
そして娘さんもまた、自分の母親が自分の目の届かないところで一人の人間として羽を伸ばしていることを、深く理解し、母親が家族だけではとてもできない人生を謳歌している、と大切に見守ってくださいました。要介護になっても、家族以外の誰かと「冒険」を楽しみ、笑い合える。それは「訪問ヘルパー」として地域のケアに携わる私たちにとってはこの上ない喜びです。

目の前の「姿」ではなく、豊かな「歴史」を敬う

在宅ケアの現場では、時として、身体が思うように動かず、介助に苦慮するような場面に出会うこともあります。しかし、私たちは、困った年寄りを一方的に介護するだけの存在ではありません。T様の背後にある、目も眩むような輝かしい歴史を常に感じ、T様の気遣いや優しさの中で私たち自身もまた生かされると思っています。
T様は、かつて国際労働組合の現地通訳としてイスラエルをはじめ、世界を股にかけて活躍された、知的好奇心にあふれる女性でした。言葉が聞き取りづらくなっても、私たちの活動に対して「意味があることだから、頑張りなさい」と背中を押してくださいました。
お庭の大きな胡桃(くるみ)の木を見上げて、「あれは母が植えたのよ」と目を細める表情。
朝食の感想を「普通ね」と答えた後で、「さっき、おいしいって言えばよかった。ごめんなさいね」と呟くチャーミングな一面。慣れないケアに焦る新人ヘルパーに「あなたならできるから、自信を持ってやりなさい」とかけてくださった言葉。
また、ケアを指導するスタッフには「いろいろ注意するのではなく、見守ることも大事よ」と、プロとしてのあり方をアドバイスいただくこともありました。その一つひとつの断片が、彼女という一人の人間の深みを物語っていました。

家族でも友人でもない、私たちの「社会」

後日、娘様からいただいたメールには、私たちの胸を打つ言葉が綴られていました。
「母はヘルパーの皆さんとの間に自分の社会や世界を持っていて、その中で彼女らしい、私から独立した社会性をエンジョイしていたのだな……と思いました」
娘様にとって、T様はお母様であり、友人であり、相棒でもあったそうです。しかし、私たちヘルパーとの間には、また別の「顔」がありました。 誰かの助けを必要とする状態にあっても、彼女は自立した一人の人間として、私たちを「育て」、交流を楽しんでおられました。最期まで一人の女性として自由であり続けたこと。それが、たとえ短い期間であっても、わが家で過ごすことの価値だったのかもしれません。

「生きているだけで、讃えられるべき」

T様が晩年、手に取られていた伊集院静氏の著書『風の中に立て』の中に、こんな一節があったそうです。
「生きているだけで讃えられるべきものが生だとも思っている」
「高齢だから」「手がかかるから」というのは、世の中が勝手に作った物差しに過ぎません。たとえ体が思うように動かなくても、その時その瞬間に生きていること自体に、絶対的な価値がある。私たちは、T様との出会いを通じて、この言葉の重みを改めて噛み締めています。

おわりに

「ケアに入るというのは、特別なものですね」 T様を囲む会で、スタッフの一人がそう漏らしました。
地域の中で、人の輪の中で、その人らしく最期を迎える。その伴走をさせていただけるこの仕事は、時に切なく、けれどこの上なく「興味深く(Interesting)」、そして素晴らしいものです。
T様 たくさんの教えをありがとうございました。
私たちはこれからも、あなたの隣で感じたその「生の輝き」を胸に、次の方の元へ歩んでいきます。